3.歴代の父兄会会長


よみがえらせたい想い出や名言•祝辞

3.歴代の父兄会会長

父兄会の沿革

初代会長 下島儀貞(35周年記念誌から一部引用)
 或る国の哲学者が、「過去を忘れる者は、將来からも見放される」と言い残しております。本会も此の機会に、過去を思い返して頂くのも、有意義かと存じます。
 わが大東文化大學の前身は、大正12年国会の議を経て国立として設立された大東文化學院に発し、経費の總てを国庫に依存し、少数の學生に多数の教職員を擁し、家庭的教化訓育が行はれておりました。
 戦後私立大學として再生するに際し、国費が打切られた為、教職員と学生間の師弟形態が、時には親子同様の敬慕、又時には兄弟同然の信頼で結ばれて来た學風を、維持する事が不可能と成り、之に代わるものとして、過去の學内一体観的思想の下で、濃密な人格交流による成果を尊重し、誇る可き伝統として踏襲することを目標に模索し、結局父兄が協力することに成りました。そこで先づ父兄の組織化を策し、準備に2年の歳月を費して、昭和36年に父兄会が誕生したのであります。爾後今日迄本会は、學生の勉學と人間形成に支援を続け、「父兄会は學生の為に寄与、貢献すべきもの」との本義を掲げて参りました。
 大東文化会舘は、學生に必要な集会場として、又地方の父兄が上京宿泊し、子女の生活状況を視察把握の場とする目的を以って、本会が建設して、學園に寄贈したものであります。
 父兄会に有る「特別運営資金」も亦会員が幾多の苦難を乗り越え、汗を流して集めた寄附金であって、敢て一般会計に繰り入れる事なく、別途会計として學生の要望に親炙した有意義な使途に当てる為保存しておくのであります。


父兄会の思い出

第2代会長 岡田創(15周年記念誌から一部引用)
 学校側及び父兄会側の考えていることを父兄会に伝え、又各父兄の御意見、御要望を学校側、父兄会側に伝えるのに最もスピーディに、正確に伝達するのは、各地に父兄会支部を作ることが一番よいのではないかとの意見が段々強まり、全国的に支部結成の動きが総会で決りました。
 支部結成第一号をどこにするか。全国各地即ち北海道、福岡、広島、和歌山、三重、青森、盛岡等早い呼びかけがあった様に思います。
 当時は未だ学生数も少なかったのですが、そのなかでも北海道は郵政省関係の子弟の方が毎年纏まって入学して居られ、各都道府県別の学生数の中で一番多かった様でした。(略)之等の好条件が重なって、最初の支部結成は札幌に決り、38年の8月に開催することになりました。


追憶談

第3代会長 鈴木鉄太(父兄会10年史から一部引用) 
 燎原の火の如く広がる全国大学紛争の最中に本学において特に学生との対話の場を求めて43年6月に新校舎東松山の大講堂に学校当局、大学各学部長、教授及び校友会、同窓会、父兄会役員と、学生自治会代表との対話が開かれた。一部学生の発言内容の暴言と態度は誠に遺憾であったし、これに対するに金子理事長(当時専務理事)の毅然たる態度と確信に充ちた答弁は忘れることが出来ない。またこの場の対応を見て学生側の問題提起内容の浅さと不勉強が目立つのみで終わりましたのは残念であった。


父兄会の思い出

第6代会長 鈴木則幸(25周年記念誌から一部引用)
 実力ある父兄会のへの前進のため、役員及び職員の理解と責任、連帯性と融和協調を求め、(1)組織の民主化、(2)支部長の位置付け明文化、(3)本部役員の権限と責任、(4)役員選出の民主化を骨子とする提案を昭和45年10月の臨時総会にて行い、活発な論議を経て満場一致で可決され、規約改正及び内規の制定がなされ画期的前進が図られました。規約の改正で特に第二条中「大学と協力して・・」とあるを「大学に協力して・・」と改め、また会費の納入を昭和46年新入生から授業料と同時に納入することに制度化したことが今も思いに残っています。


父兄会15周年記念に寄せて

第9代会長 高橋延雄(15周年記念誌から一部引用)
 回り合わせとでも言おうか、私の任期中に余りにも多くの問題が起こった。学園の人事異動に伴うトラブル、大東厚生社の経営の行き詰り、それに加えて学校側の組合運動等々、一つの問題提起がきっかけとなって、諸々の問題が吹き出した感があった。問題夫々関連があるので、当を得た基本的な解決策を見出し、それを強固に維持すれば、多少時間が掛かっても、自ら全てが解決するであろうというのが私の見方であって、父兄会としても会議の場で意見を統一し、早期解決を学園側ならびに学校側に要請すると共に、父兄会としてなし得る範囲で、具体的に協力もしてきたのであるが、何かと雑音が多く、その後進展はみられたものの、今日未だ多くの問題を残していることは残念である。


回想と期待するもの

第10代会長 田島敏男(30周年記念誌から一部引用)
 私が副会長、会長職の時代が、学園として一番問題の多い時期であったと思います。金子理事長、時枝理事長、鈴木理事長と三代変わりました。学園内の諸問題に就いて、新聞等に書かれたり、又学園と大学との軋轢等々、限られた紙面の都合上詳細には書けませんが、又書く必要もありませんが兎に角大変な時期でした。誰か解からない無名の怪文書が自宅迄、度々届き、これが判断には大変迷惑し困りました。幼稚な文面で、只々人を中傷する文面ばかりです。建設的なものは一つもありません。父兄会に対しても色々と訴えて参りましたが私は常に父兄会の立場を説明し、父兄役員の皆様とも意見を統一して決して紛争に巻き込まれぬ様又、学園、大学、のどちら側でもなく中庸を守るべく努力して参りました。私は現在も当時を顧みる時、どちらへも組さない中庸の道を堅持した父兄会の行動の正しかった事を誇に思ひます。


挨拶

第12代会長 廣瀬鐡雄(40周年記念誌から一部引用)
 昭和58年4月から62年3月までの4年間を務めさせて頂きましたが、ついこの前のように思われます。月日の経つのが本当に速いことをしみじみと思うこの頃です。
 59年1月22日の日曜日の昼過ぎに「優勝しました」(全日本駅伝)という南雲事務局長からの電話がありました。伊勢からの弾んだ声で。”大東8年ぶり5回目の王座”という新聞記事が、私にとっては学生からの嬉しいプレゼントでした。そのお返しの気持ちで、大東文化大学60周年記念行事に入選した新学生歌「おお青春よ」と「桐の窓辺に」の2つを混声合唱(伴奏付)にして録音し、記念式典当日にカセットテープを配りました。
(*この新学生歌「おお青春よ」「桐の窓辺に」は、「校歌」「学生歌」と合わせたCDとして、毎年、青桐会から新入生に配布されています。)


新たな活動に期待を寄せて

第13代会長 旦光雄(35周年記念誌から一部引用)
 広瀬会長から世代継承の重責を担い、会長として3年間父兄会活動に全力投球が出来ました。この慶びと満足感に今も胸の高鳴る思いです。同世代の役員諸氏の結束と良き時代の背景に恵まれ、運の良さに感謝を忘れる事が出来ません。国内では好景気が続き世相を反映してか、大学ラグビー大学駅伝が全盛期を迎えた。メディアの影響も手伝って人気も沸騰した。陸上部は伝統の強みもあって、全国大学選手権、関東大学箱根駅伝の2大タイトルを連覇、黄金時代を再現した。大学ラグビーでは初優勝を成し遂げ、百年の伝統校に競り勝ち一躍全国に名声が高ぶる活動に、キャンパスこぞってグリンの小旗を打ち振り国立競技場で歓喜乱舞天を突いた。(略)
 本学は受験者の超増大など絶頂期を迎えていた。父兄会の活動も新たな展開が始まり、変革を目指す新制父兄会が最初の本部役員会で方針を討議、4項目が成案した。1.大学首脳陣と父兄会本部との対話が不可欠である。2.情報伝達の機能と円滑化。3.事務的な処理では進歩がない。4.学生生活の現場に関わる環境の即応が必要。新たな使命感の方向づけを明確に打出して首脳陣との対話を要請、理解を求めて直接杉本学長にお願いし、心よい承諾を得た。


挨拶

第14代会長 木全喜一(40周年記念誌から一部引用)
 私こと、平成3年30周年記念事業の担当会長として東松山キャンパスに植樹したメタセコイヤの写真が35周年記念誌(16頁)に写真が掲載されていますが今年で10年、大きく成長した姿を見るのが楽しみであります。
 3年間の在任中陸上部の大学駅伝三冠達成(出雲国びき、全日本駅伝、箱根駅伝)を果し陸上部の黄金時代であり、父兄会の盛り上りも最高でした。


父兄会への想い

第16代会長 杉本邦昭(35周年記念誌から一部引用)
 父兄会というと名称に違和感を感じたことはありませんでしたが、新入生の父母、特に女性の方から”父兄会”という名称は時代遅れで適切でないとの指摘があり、平成6年に各支部に名称変更の是非についてアンケート調査を実施しました。”父兄”という言葉には単に父と兄とかの男性を表すのではなく家庭内の先人という大きな意味が含まれているとの高橋・現顧問の説明に納得される方も沢山おられましたが、それ以上に、”大東文化大学父兄会”という名称に愛着を感じている人も多かったという、新しい発見もありました。各支部の意見を聞いた上で名称は当面そのまま継続することになりましたが、今後、時の流れとともにその時代に合った名称に変わっていくことと思います。ただ、私にとって35年続いた良い名前との想いが今も強く残っています。


挨拶

第18代会長 小林信治(40周年記念誌から一部引用)
 アトランタオリンピックへは、学園応援団に、父兄会を代表致しまして参加しました。マラソンの実井選手は一寸残念な結果でしたが競技場へ入って来た時は、感激し、良く帰って来た、良く棄権しなかったと皆で選手を称えました。もう一人出場したのはグレコローマンの鈴木選手です。こちらの方は日本人で初めて8位入賞という輝かしい成績をおさめました。
 色々な事が浮かびます。箱根駅伝応援・ラグビー部激励・アスリートエッグ竣工式・各運動部・文化部激励会・企業との就職懇談会それに珍しいのでは嬬恋セミナーハウスに温泉が出た!!名付けて「大東温泉美人の湯」見学等々、楽しく懐かしい思い出です。


挨拶

第22代会長 時枝良治(45周年記念誌から一部引用)
 私が会長の年度が、父兄会創設40周年記念の年度に当たり、色々記念行事を体験した時のことが思い浮かんできます。
 露木正雄前会長の年度から記念事業の準備委員会を開設し、色々準備を進めて立案を内定し、歴代会長の意見を聞きながら進めて行き、学校側にも相談しながら決めてきた事を私の年度で実行するという流れできました。
 私の会長年度には、毎週の様に会議を開催し、本部役員の皆さんは大変だったでしょうが、全員が不平不満を言うどころか、喜んで出席して頂き、充実した内容で父兄会創設40周年記念事業が推進する事が出来ました。私の年度は柳井、田中両副会長を始めとし本部役員の皆さんに助けられ、事業を推進することが出来本当に感謝しています。青木顧問、露木相談役も役員会に出席して頂き色々アドバイスをしてこられたことも心強かったです。また、大学創立80周年記念準備委員として参加し、何かと多忙な年度でした。

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